松井 茂
「対話を展示する? します。」
2024年8月24日(土)
15:00-18:00
対話者:伊村靖子(美術批評)
参加費:1,000円 (ドリンク付)
定員:10名【満席】
*キャンセル待ちを承ります。
*お名前、ご連絡先を添えてお申し込みください。
ETHICA
岐阜市八幡町14-3 三輪ビル2階<ラ・ぺスカ上>
tel 058-207-8899
2024年8月24日、岐阜市八幡町の「ETHICA」にて、詩人 松井茂が対話を展示します。
対話者は伊村靖子です。
是非ご参加ください。
! ) 本展覧会のDMには参加費の記載がされておりませんでした。
お受取りいただいた皆様、また参加をお考えの方々には大変ご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
松井 茂「対話を展示する? します。」
山口さんから、僕がなにか話す企画を、と打診され、レクチャーではなく、話す自分を展示してはどうだろうか? と考えた。演劇でなく、ハプニングでもない。なにかに関する解説ではなく、言わば対話の展示。対談というと、すこしはうけなきゃいけない気遣いが起こる。せいぜい対話くらいにしておこう。だから退屈かもしれない。
誰と対話するか? たいていの場合、僕の話は詩に対する考えを起点にしている。それならば、以前から僕の詩に関心を寄せて下さる、伊村靖子さんと話すのがよい。
対話のきっかけになりそうなモノをおいてみるべきか? それは詩であるべきだが、僕には仮説があり、曰く、詩は展示不能であると考えている。詩をモノにする必然性が無いからだ。詩は常に、語られることで生成する。
モノあるいは痕跡は、詩という作品概念の存在証明ではあるが、それは周辺資料なのだ。周辺資料を豊かに解読することが、詩の存在を豊かにすることに繫がるのか? 周辺資料を豊かに解読すること、それこそが伊村さんの研究手法や批評態度から学んだことではある。僕は最近、その口吻を真似ている自覚もある。
いずれにしても対話を展示することで、詩が展示不能であるという自身の仮説への推測と反駁を加えつつ、贅沢に一日を過ごしてみよう。
伊村靖子「純粋詩についてでどうでしょう?」
松井さんから、対話の展示を考えていると聞いて、興味を惹かれた。というのも、対話は作品でもなく著作物でもない。言ってみれば、作家の手を離れた関係性のなかから生まれる一過性のやりとりだ。その時間が過ぎれば跡形もなくなってしまう展示。これは、松井さんの「純粋詩」にぴったりの方法に思える。
松井さんは、2001年1月7日に「純粋詩第一番」を書き始め、量子詩の配信とともに5日毎に更新し続けている。一と二と三を縦20個、横20個、計400個並べたこの詩は、意味と画数、形が一致する漢数字で構成されているという。純粋といえばその通りだが、ミニマル極まりない作品。であるがゆえに、この詩にはあらゆるものを映し込む力がある。興味深いのは、この作品が他者によって展開し続けていることだ。純粋詩は、2002年1月5日「朝日新聞」夕刊に発表され、2002年2月17日に武蔵大学で、詩を読み上げる音声に合わせて3人の出演者が歩くパフォーマンスが行われた。2003年には、豊田市美術館の「宥密法」で展示され、2004年には、鶴見幸代がこの詩を含む合唱曲「縞縞」を作曲した。ここに挙げたのは一部にすぎないが、まさに対話を生み出し続けているのが純粋詩なのである。その饒舌な詩のありようを感じ取れるのは、資料を通してではないか。私も観客も巻き込まれながら、純粋詩を語り尽くす1日となるだろう。
松井 茂(まついしげる)
2001年1月7日以来、決して止むことなく詩を書き続けている。 ゆえに、私は詩人である。
https://purepoem.daa.jp/
伊村靖子(いむらやすこ)
『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)共編のほか、主な論文に「「色彩と空間」展から大阪万博まで――60年代美術と建築の接地面」『現代思想』(48巻3号、2020年 3月)、「1960年代日本現代美術における「インターメディア」の系譜」(『美術フォーラム21』45号、2022年6月)など。2022年に「国立新美術館所蔵資料に見る1970年代の美術―― Do it! わたしの日常が美術になる」展(国立新美術館)を担当。